シカゴ新報と在米左翼

先日の市場で落札した品について文章を書きました。古書組合のメールで送付したものですがこちらにも掲載します。品は、藤井寮一の書簡。クセのある字でしたので判読も誤りがあるかも知れません。
半端な知識で書いたものですので、お詳しい方に問題点等ご教授いただけると大変に嬉しいです。

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 藤井寮一はシカゴ新報を立ち上げた人物である。1931年にオハイオ州の神学校留学のため渡米。1935年にニューヨークで共産党に入党するが、1940年には離党している。デンバー新報への寄稿、無料のニュースレターの発行を経て、1945年11月にシカゴ新報を創刊した。
今回注目したのは藤井が1950年から1954年にかけて日本にいる友人に宛てた手紙五通と、1954年にサンフランシスコで発行された『日米時事』の一部である。手紙には公私交えた興味深い内容が書かれているが、ここでは左翼との関わりのみを考えてみたい。(以下、かっこ内は手紙からの引用)
 1950年3月28日付。資金繰りで苦労している中、賃上げ要求がおこる。「工場のトラブルだ。その背後で糸を引いている者のいるのは知っていた」「在米日本人間における左翼ほど情けない代物はないと思っている…そんな点が気に喰わないのかもしれない…それでトラブルを作りにかかって来た」。1950年9月24日付。「僕の不在中に少数の左翼の者によって様々な謀略がめぐらされていた」「彼らは僕をファシストだと言い歩いたり」「誰から赤だと密告されるかも知れない不安は形容の仕様がない」。
6月には朝鮮戦争が勃発。アメリカはいわゆるマッカーシー旋風の最中にあり、共産主義者を追放する赤狩りキャンペーンが、政府内、教育研究機関、労働組合、映画産業に広がっていた。1952年2月9日付。「(在米日本人の間でも)米国政府の政策を支持することが身の安全を得る傾向が出ているので危うい」。
そして同年9月、藤井はFBIの追究を受け、共産党員であった経歴を理由に逮捕される。国外退去を求められ、1953年10月にはシカゴ新報も退職した。
1954年2月17日付。藤井はなおもヒアリングを受けていた。「調査官は概ね好意的…送還停止を申請中…米国市民である支持者も証言してくれて有り難い」と手紙には綴られている。追究の内容は分からないが、手紙と一緒に出品されていた『日米時事』が手がかりとなるだろう。赤い印の付けられた「日系左翼分子取締り強化へ」という見出しの記事。共産党の容疑で移民局より検挙された西博の聴問会(2月23日)において藤井が政府側の証人に立ち日系新聞の左翼分子の内幕を暴露したため、西の強制送還は必須であると書かれている。1976年に藤井が記した自伝によれば、1950年に工場の賃上げを扇動した左翼分子がこの西であった。
藤井は何を思っていたのだろうか。彼は左翼思想を否定したわけではない。藤井のシカゴ新報で目指したのは、「在米日本人の思想的、文芸的作品を発表する場とする」ことで、思想上の制約を受けることを最も嫌っていた。五通目の手紙は同年6月1日付。体調を崩し手術をしたという藤井の文字が乱れてほとんど判読できない。彼は五年後にシカゴ新報に復帰し、同紙は今も続いている。
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店にあるアメリカ現代史の本と、『シカゴ移民百年史』だけを参考に書きました。『日米時事』では西博なのに、『シカゴ移民百年史』では西清だったりするんですよ。本当は海外移住資料館の資料室で文献にあたりたかったのですが、金曜日に落札、日月は資料室が休み、火曜日の朝が締切でしたので残念。もう少し色々と勉強をしてからもう一度この書簡を読み返すつもりです。



いやもうこの字ときたら…