市場の出品から4

市場の出品物について書いた文章シリーズ、再開です。
初めて能舞台に上がったのは二十歳の時でした。
般若の面、或いは般若というのは誤解されています。
日本では、鬼になるのは女だけ。

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 月岡耕漁の「道成寺」の掛軸があった。耕漁は月岡芳年の義理の息子に当たり、能の絵を多く描いたことで知られる画家だ。私が稽古をしていた能舞台の鏡板(舞台背面の松)を描いたのが耕漁の弟子で、耕漁の名も師匠から教わった。
 この絵にあるのは能楽道成寺の特徴的な部分である。吊り上げられた鐘、白拍子姿の女。多くの人のイメージにある所謂「能面」をかけ、何も知らなければ静謐な能の一場面に感じられるのではないだろうか。しかしそれはまったくの見当違いだ。なんせこの可憐な白拍子は鐘を前に舞った後、鐘の中に飛び込み、ついには蛇体となって現れるのである。彼女はその昔、恋した男に裏切られたと思いこみ、執心のあまり蛇体となって鐘の中に隠れた男を嫉妬の焔で焼き殺したのだった。
 蛇体となった姿で使う能面は「般若」。最も知られている能面かもしれない。もし写真が載っている本をお持ちならば、またはインターネットが使える環境にいるのであれば、その顔を確かめてはいただけないだろうか。口は裂け歯を剥き頭から角を出した恐ろしい顔。しかし口を隠して目だけを見れば、その顔は泣いている。般若は悲しくて悲しくて、悲しみが憎しみと転じた末に鬼となった女の顔なのである。ちなみに長く男だけのものであった「能楽」に男の「鬼」は出てこない。鬼とは皆、嫉妬に狂った女の果て。女としては文句の一つでも申し立てたいものだ。
 能の道成寺を描いた絵に多いのは鐘入り前(吊られた鐘の縁を女が下から触れる)と、蛇体となり(般若の面を掛け鱗模様の装束を付ける)打ち杖を振り上げる場面である。白拍子姿のものは歌舞伎では多いが能では比較的少ない。だからこそこの絵には趣がある。これから起こる緊迫した乱拍子や僧との激しい対決を想像に留めることで生々しさは薄らぎ、櫻咲く道成寺の華やいだ風景がくっきりと映える。花の季節や、巳年や亥年に掛けるのも素敵だろう。女を生かすも男を生かすも相手次第というのは昔のこと。ここは、軸を生かすも主次第、と言っておくことにしようか。